身体と動きを通して自分を知る、ダンスメディテーション
2020年1月、
タントラライフジャパンのイベント、
タントラコンシャスダンスWorkshopに参加した。
2019年から2020年にかけての年末年始も、
同じくタントラライフジャパンの
Meditation Holidayに参加して、
身体を動かしながらの瞑想、
アクティブメディテーションを
私はとても気に入ってしまった。
今回のタントラコンシャスダンスは、
ダンスをツールとした
ダンスメディテーション。
ダンスといっても、
いわゆる形があるダンスではなく、
音楽が身体に入ってきた時に、
どう自分の身体が動いていくか、
その動きたいままにさせる。
ただただ、
音とともにいて、
身体と共にいる時間。
身体を通して、
もっと自分を感じ、
今ここを感じたかった私は、
流れるように参加を決めた。
年末年始の瞑想合宿は
人数が少なめだったけれど、
今回は会場に行ってみると、
かなりの人数だった。
30〜40人くらいは居た気がする。
天井の高いホールのようなところで、
心地良い音楽がかかっている。
ああ、
また音と共にいて、
身体と共にいられる時間が来た。
私は嬉しくなった。
ゆるゆると人が集まり、
時間が来て始まった。
最初はホールの中で、
全員一斉に動いていく。
ゆっくりと歩いたり、止まったり、
音楽もゆっくりとしたもの。
各々、
思い思いに
自分の身体を感じながら、
動いている。
やがて、
少しずつ、
音楽のテンポも早くなり、
音量も上がって来る。
その音楽が、
一人一人の身体を通っていき、
どんどん動きに自由さが増していく。
時折、
インストラクションが入って、
人と触れ合ってみたり、
出会った人と一緒に踊ってみたり。
言葉を交わすことは
ほとんど無いけれど、
身体と身体で出会い、
影響し合うことを感じる。
その後、
二人組になって踊るワークもあった。
一人は目隠しをして踊り、
もう一人はその踊りを見守る。
見守る側は、
踊る側が周囲の人や物とぶつかりそうな危ない時だけ、
安全な方向へと動きをガイドする。
様々なワークがあって、
あっという間に時間が過ぎていく。
ただただ動いて楽しい、
ということもあるし、
身体と共にあり、
身体を感じ、
身体の動きを通して、
自分を知る時間でもある。
その時に書き残した感想メモが、
読み返すとなかなか躍動感があるので、
そのままここに載せたいと思う。
変わっていくことを恐れないで、変わっていくことを楽しんで
タントラコンシャスダンス!
ああ、すごい。
踊るってすごい。
こんなにも身体は自由に動きたがっている。
求めている。
そして、ただ自然に動くに
任せたがっている。
いつも、
そこを抑えるのは、
縮こまらせるのは、
思考だ。
そして、
自分にとって未知の動きは、
無意識の囚われにより
未体験だったもの。
誰かが、
自分には想像もしなかった
動きをしているのを見て、
その枠を超えていくことができる。
だから、
人の踊りを見るのもとても楽しい。
誰かを見て、
自分と比較して卑下するのでなく、
誰かを見ることで、
自分が解き放たれていく。
そんな動きもあるんだ、
そんなこともOKなんだ、
なんか楽しそう、
私もやってみよう、
動いてみよう。
そうやって、
自分を解き放っていく。
それはダンスだけじゃなくて、
仕事でも生活でも一緒だ。
誰かのやり方を見て、
考え方を見て、
やろうとしていることや行動を見て、
それを批判したり、
同じようにはできない自分に
ダメ出しするのでなく、
その存在がそこにあることを
ただ純粋に認識して、
時には自分も試してみたり、
時には取り入れて
従来のやり方を変えてしまったり、
あるいは参考にしながら
新しいやり方や考えを生み出したり。
全ては変化するのだ、
やっぱり。
これまでに
固執するのでなく、
無意識の囚われが
いつだってあるかもしれないのだ、と
思っていれば、
全ては変化していくものだ、と
変化を歓迎し、
変化を身を委ね、
変化に乗っていく。
「変わっていくことを恐れないで、
変わっていくことを楽しんで。」
そう身体が教えてくれた。
身体が教えてくれることは、
本当に偉大だ。
隠しても無駄!隠れても無駄!
部屋の隅っこで
落ち着きを感じながら
踊っていたら、
カビール(タントラライフジャパン代表であり、イベントリーダー)の声が聞こえた。
「隠れないで!」
「全部身体の動きに現れてしまうのだから。」
「分かってしまうのだから。」
「隠れても無駄だから!」
この言葉が、
また一つ私を解放してくれた。
そうか、隠れても無駄なんだ。
隠しても無駄なんだ。
全部分かってしまうんだ。
確かにそうだ。
私たちは、
言葉で言っていないなら、
バレないだろう、って
思うことがある。
けれど、
身体が正直に話していることがある。
その非言語情報を感じ取って、
暗黙のうちに応じるように
行動していることがある。
あるいは、
身体の動きを見ていると、
その人の人となりが分かることもある。
隠しても無駄なんだ。
ずっと昔に、
誰か俳優さんを取り扱った
ドキュメンタリーのような番組を見た。
番組の最後で、
その俳優さんが言っていた。
「役柄には、俳優自身の性格や存在が、
滲み出てしまうのだ。
浜辺で、
砂の中にいる蟹の甲羅の形が、
うっすらと見えるように」と。
隠しても
滲み出てしまうものなんだ。
ホールの隅っこで
隠れて踊っていても、
動きが語ってしまう。
誰にも見えていないようで、
全部見えてしまっている。
動かないことも、
動いていることも、
慣れた動きも、
恥ずかしさを感じる動きも、
どんな動きも、
実は外に現れているし、
伝わってしまうんだ。
隠れても、
隠れなくても、
結局は同じこと。
隠れられた気になっていたのは、
私だけだった。
そして、
それもまた思考の枠、
囚われが求めていたものだった。
身体は、
真ん中へと踊り出たがっていた。
走り回りたがっていた。
たとえ、
それが目立ってしまおうと。
目立つかどうかでなく、
人の目につくかどうかでなく、
身体が求める動きを
ただただ自由にさせてあげたらいい。
だって、隠れても無駄なのだから。
結局は、伝わっているし、
全部分かってしまうのだから。
どれだけ、
自由にあるがままにいるか、なのだ。
あるがままが、
わがままに感じられることもあるだろう。
けれど、そこには差がある。
自分があるがままで居られれば、
誰かのあるがままも受け入れられる。
自分がわがままであるなら、
誰かのあるがままは許容できない。
自分自身が
あるがままで居続けることが、
全ての始まり。
隠れても無駄なのだから、
隠れようとする囚われを脱いでみよう。
ああ、とっても自由な気分だ。
サレンダー!
参考ページ:タントラライフジャパンのHP