絵が下手だと思っていた子ども時代
小学校から高校まで、図画や美術の成績がずっと悪かった。
工作は好きだったが、どうも絵を描くのが得意では無かった。
小学生の時、一時期毎週のように病院通いをする必要があった。
それをいいことに、通院日をわざと図画の時間に当てて、授業に出なくていいようにしていたくらいだった。
宿題を親に手伝ってもらったことだって勿論あるし、どうしたらうまく描けるようになるのかさっぱり分からなかった。
どうも父親も絵は得意ではなかったみたいで、同じく成績が悪かったらしい。
ある時、父が小学生だった時の展示会の笑い話(?)を、祖母から聞いたことがあった。
子どもだった父を含めクラス全員が各々に絵を描いて、全員の絵を展示する機会があり、それを祖母は見に行った。
色んな絵が飾ってある中で、父の絵を見つけた祖母は、驚いて、笑ってしまったそうだ。
「あの子の絵だけ人物から吹き出しが描かれていて、その中にセリフを書いてたのよ!」
と、祖母は笑いながら話してくれた。
今思えば、独創的で微笑ましい。
でも、当時その話を聞いた私は、あぁ、父も苦手だったんだな。親譲りってことかなぁ、と思った。
そして、小学校から高校まで、10年間以上、成績が上がることはなく、その結果、私は自分は絵が苦手で下手だとずっと思っていた。
大人になってから絵を描いていたら、かけられた意外な言葉
大人になってから、理由は忘れたけれど、ある時、絵を描くことがあった。
私、下手なんですよ、と言いながら、なにかの説明のためだったか忘れたけれど、とにかく恥ずかしいし嫌だな・・と思いながら絵を描いた。
けれど、何度かそんな場面があった後、その私の描く絵を見ていた人にこう言われた。
「えりちゃんの絵って、味があるよね〜」
えっ?と私は目が点になった。
絵のことで、人からそんな風に言われたことは、それまで一度も無かったからだ。
いやいや、私下手ですから。
言われた時は、きっと即座にそう答えていたと思う。
その後、起きた内側の変化
けれど、何度か同じことを言われるうちに、私の中で変化が起きていった。
確かに学校の成績は悪かったかもしれないけれど、それが全てではないよな。
上手い下手でなく、誰かが好きになってくれることもあるんだ。
そうであるならば、真っ向から自分の絵を否定することはないんじゃないか。
そんな風に思い始めた。
心の中に生まれたちょっとあたたかい感覚。
その感覚は少しずつ育っていった。
今は絵を描く恥ずかしさはなくなった
それから少しずつ絵を描くことへの抵抗が減り、仕事でも絵を描くことがあるし、日々書く手帳にも、時々絵を描いている。
絵を描くことで、対象物を観察するようになって面白いし、描いた絵をあとで見返した時にちょっと楽しい気分になる。
今でも、自分の絵が上手だとは思わないけれど、描くことが恥ずかしかったり、嫌だとは、そこまでは感じなくなった。
私の描く絵で、自分も含めて誰かが、ふっと笑顔になって、ちょっと幸せな感覚を持ってくれるなら、それだけで素敵なことじゃないかと思う。
大げさかもしれないけれど、その知人にかけてもらった一言で、私の人生は変わったのだ。
言葉をかけてくれたその人は、もうこの世にはいない。
故人のことを想っていたら、思い起こされた記憶だった。
言葉が人の人生を変えることがある その背景には哲学がある
ちょっとした一言が、人の人生を変えることがある。
そして、何気ない言葉の背景には、その人の視点や視座、哲学が垣間見えたりする。
故人は、たとえば学校の成績という、誰かのものさしを通して見ることが、
一人一人の持つ能力やユニークさを取りこぼし、時に制限してしまうことをよく知っていた。
知識や能力を、人を幸せにするために使うことを大切にしていた。
そして、誰かの評価判断で物事を見るのではなく、自分のハートで感じることを大切にしていた。
私は、心に残る哲学や言葉たちを、故人から沢山もらっていたのだな、と思う。
きっと、同じように、私も知らないうちに、誰かに何かを渡しているのだろうと思う。
自分の内側を磨き、世界を優しく明るくする、希望の持てる考えを持ちたい。
そして、できるなら、人の人生を明るくするようなものを渡していきたいと思う。