お線香をあげに、亡くなった知人のお宅へ伺った。
もうこの世から旅立った故人の、一度も伺ったことのないお宅へとお邪魔するのは、
考えてみると不思議な状況である。
ご家族の方ともこれまでお会いしたことはない。
初対面の人同士が、自宅というとてもプライベートな空間で、その間をつなぐ人の存在なしに会う。
亡くなっているからこそ受け入れられているこの状況は、通常時の感覚で振り返ると、少し奇妙に感じられる。
けれど、故人とつながっていたという共通点が、間を取り持つ。
亡くなってしまったら、本当はいつでもそこにいて、お墓にも自宅にも行かなくても、会えるのかもしれない。
けれど、どこへも向けることのできない悼む気持ちや悲しみを、
お互いに慰め合うその時間を、
人間は自然と求めてしまうものなのかもしれない。
最期の時をどう過ごしていたのか、何を思っていたのか、苦しんだのか苦しまなかったのか・・・。
ご家族しか知り得ないお話を、失礼のないようにお聞きする。
あぁ、、あの方らしいね。
あぁ、、最期まで・・・。
亡くなるまでの最後の様子は、本当は知らなくてもいいことだけれど、なぜ知りたくなるのだろう。
故人との交わせなかった会話を、果たせなかった再会を、
様子を聞かせてもらうことを通して、しているのかもしれない。
生前お世話になったことや、いただいた有形無形のものを思い浮かべ、ご家族の方にお伝えする。
そうすることで、故人へと伝えられているような気持ちになるのかもしれない。
ひとしきり話をし終えて、お宅を後にすると、故人のエネルギーの質や音色が、心と体に鮮明に蘇ってくる。
人は一人一人異なる、魂の質と音色を持っている。
そして、それは亡くなった後に、その純粋な核となる部分が周囲の人に刻まれるのかもしれない。