2015年秋、私は女神山にいた。
知人の紹介で、ビジョンクエストに参加していたのだ。
ビジョンクエストは、ネイティブアメリカンが行なっていたという通過儀礼であり、ずっと前から興味を持っていた。
森や荒野でたった一人幾晩か過ごし、自分の人生でその時に必要なことを大自然と共に行ったり、あるいは未来への啓示を受ける。
自分の使命を知るため、もしくは、人生の転機を迎えた時に行う儀式である。
内容の詳細は、誰の元で行うかや、その時の自分の状態によって異なるようだ。
私は、初日の集合後、キーパー(知恵をキープする責任を負っている人)に連れられ、森の中へ向かった。
キーパーは、坂の中腹辺りで、尾根のへりに位置する場所を、私の場所として指定した。
一人分のテント丁度くらいの広さのゆるやかな平地、脇には目印になる木が一本立っていた。
その定められた範囲が私の場所だった。
この場所で、自分専用のテントを立て、1週間近く一人で過ごすことになった。
キーパーが、日に数回訪ねてきて、ここまでの気づきを聞いてくれたり、次の課題を授けていく。
食事もシンプルなものではあるが、日に三度、私の居場所とされているエリアの淵に置いていってくれる。
けれど、それ以外は、人と会話を交わすことはない。
ただひたすらテントの中や、自分の居場所の範囲に居続ける。
キーパーとの対話の中で、自然の声を聞くことを学ぶ。
そして、一人で自然の中にいることで、自分の内側に静かに耳を傾ける時間が続いていく。
インターネットやスマートフォンの普及により、たくさんの情報や刺激、人とのやりとりが、これまでにない速度と頻度で日常生活の中に入り込んでいる。
その中で、自然の声に耳を傾けることや、自分の内側深くに耳を傾ける時間は、とても少なくなっている。
人工的で商業的な情報のない環境の中で、自然の声を聞く。
とても豊かな時間だ。
外界の刺激をほぼ全て断ち、内側へと意識を向けられる時間は、本当に貴重だ。
それはまるで、幼虫が蛹(さなぎ)の中で、あるいは、蚕が繭の中で、姿を変えていくために過ごす時間のようだ。
ネイティブアメリカンの人々は、現代のように情報の渦の中に暮らしていた訳ではないけれど、それでも森に一人こもる時間を持っていた。
そのことを思うと、人には人生の中でそういう時を持つ欲求が、太古からあったのだと思う。
いのちの自然現象なのかもしれない。
思えば、こうして数日間こもって、自分の内側と対話をする時を、これまでも私は何度か持ってきた。
すぐに思い出されるのは、内観合宿や、ヴィパッサナー瞑想などである。
それぞれのやり方は違っていて、意識を向けるところも違う。
ビジョンクエストで強く感じたことは、自然との対話を沢山したことだった。
テントの中を歩く昆虫や、テントの外の木々、空、太陽、風、星・・・。
自然には、一つ一つに声があり、奏でるメロディーがあった。
そして、それぞれが語りかけてくれる言葉にならないメッセージを感じた。
明かりの無い夜、強い雨の降る夜、静かな夜・・・。
どの夜も印象深い。
人里から少し離れた場所で、身一つ野外で過ごすというその状況は、
怖い感覚に襲われても不思議ではない条件は揃っていた。
けれど、不思議と守られている感じがして、どこまでも胸は温かく、私は安心しきっていた。
もちろん、キーパーとスタッフの方々が、私たちシーカーが居る一帯をホールドしてくれているからでもあると思う。
自然からのメッセージ、キーパーからの課題、毎夜見る夢・・・。
それらを頼りに、自分の内側深くの静かな一帯へと降りていく。
ゆっくりと時間をかけるからこそ、辿り着ける場所があった。
守られた時間と空間の中で得た体験と気づきは、今でも豊かな気持ちと共に思い出せる。
人生の中で、死と生を繰り返して今の私があり、先が見えないと思えた自分の中の死は、いつもその先に新しい生があった。
今思えば、その時も私は、自分の中が死へと向かうプロセスの中に居た。
そして、その時の自分は死に、やはり今の私は新しい生を生きている。
テントの中にいる私を取り囲む大自然を見渡してみても、
木々一本一本の中に生と死が同時存在し、
もっと大きな森というまとまりの中でも、動植物たちの生と死が同時に起こっている。
自然の一部である私という人間の中でも、同じことが起こっているのだと思った。
それは、自然の営みなのだと思う。
その他にも、テントの中に居た虫や、テントを取り囲む自然たちが、私に大切なことを教えてくれた。
全てを詳細には書く気になれないが、それは、言葉にしてしまうことで失われていく部分にこそ、
私が大切にしたくて、神聖に感じているものが含まれているような気がするからだと思う。
それくらい、私にとって深い体験であった。
1週間近い時の中で、この目にした光景、自然が運んでくれた驚き、そして深い気づき。
儀式という名にふさわしい体験だった。
その体験は、私にとって宝物であり、財産である。