モヤモヤやイライラといったネガティブな感情は、
実に様々なことを私たちに教えてくれる。
その一つが、無意識の期待が要求へと変わった瞬間だ。
ネガティブな感情の奥にある期待と要求
「○○は○○するものだ」と、当たり前のように思っていることがある。
「女性は料理をするものだ」
「親は子どもの勉強を見るものだ」
「ご飯は残さないで食べるものだ」
「上司は適切に仕事の指示をするものだ」
「社長は社員の意見に耳を傾けるものだ」
私たちは、育った環境や、自分の居た環境の中で、
様々なことを学習し、それが当たり前のことと思ってしまうことがある。
そうでない人や状況に出会うまで、疑うことすらない。
けれど、ひとたび自分にとって経験のない状況に置かれると、
「○△☆※?!✖️◇」と、頭の中が大混乱。
「○○は○○するものだ」と思っていた世界に亀裂が入る。
意識することもないほどに当然で、
心と体に溶け込むようにそこにあった「○○は○○するものだ」が、
この瞬間に初めて、意識化され、形あるものとなり、言語化される。
「○○って、○○するものじゃないの?」という具合に。
そうなってみて初めて、
これまで生きてきた中で積み上げられた学習によって、
自分の心と体に「○○は○○するものだ」が埋め込まれていたことに気づく。
この「○○は○○するものだ」は、自分にとってあまりに当たり前なので、
当然のごとくそのことが自然に起こる世界をヨシとし、
新しく足を踏み入れた世界でも、同じことが起こることを無意識のうちに期待する。
そして、期待通りのことが起こっている時は、平和な状態が続いていく。
しかし、期待通りのことが起こらなかった時、混乱が起こり、期待は要求へと変わる。
「○○は○○するものだ」が「○○は○○するべきだ」になる瞬間だ。
要求が満たされない時は、混乱が怒りへと変わっていく。
「○○は○○するべきじゃない?!」と、様相は激しくなっていくのだ。
とはいえ、この一連のことにそう簡単には気づけないから、苦しいのであり、怒りを感じるのだ。
ここでできることは2つ。
自分の感情を観察する
1つは、まず自分の感情を観察すること。
モヤモヤや、イライラ、怒り、違和感、そうしたものを感じたら、スルーせずに気づいて観察すること。
実は、怒りの奥に、自分の世界が揺るがされる不安や心配、恐怖が横たわっていることもあるし、
相手と相容れないことへの悲しみに気づくこともある。
そして、その奥に「○○するべき!」という声が聞こえてくることがある。
感情と思考はくっついてそこに存在していることが多いからです。
更に丁寧に探ってみると、「○○は○○するものだ」が見つかることがあります。
気づけばしめたもの。
ああ、自分はこう感じていたんだな、
ああ、自分の中にはこういう考えがあったんだな、と気づくだけで、
相手や周りへの期待と要求が、ふっと手放せたりします。
誰かに話を聞いてもらう
2つ目は、誰かに話を聞いてもらうこと。
「○○は○○するものだ」は空気のようなもので、当たり前にそこにある。
だから、自分一人ではなかなか気づけない、というのが難しいところなわけです。
もし、聞いてくれる人が、同じ「○○は○○するものだ」を持っていなければ、話が通じなくて気づけるかもしれません。
プロに頼めば、そこは更に確度が高まります。
ひとたび、この気づいていくプロセスに慣れていくと、自分一人でも気づけるようになります。
そうなったら、
日常で感じる苦しみや、
自分を縛る見えない鎖や枠のようなものは消え去り、
どんどん自由に楽になっていきます。