ゲシュタルトセラピーを受けての気づき:鬱だった私は寝ていたのでなく、倒れていた

倒れている

2021年前半、私は鬱状態だった

2021年、前半、私はうつ状態だった。

人生で初めて経験したうつ状態。

鬱々としている、引きこもっている、という状態は以前も経験があったけれど、

それらとは明らかに違っていた。

目覚めた時から襲ってくる希死念慮。

外に出られない、食事に気が回らない、服を着替える意欲すらない、

頭の中は、不安、恐怖、後悔、罪悪感、危機感に駆られたストーリーがぐるぐると回っていて、

自分で止めることができない。

口を開けば、その頭の中のストーリーを聞いてくれる人に話している。

朝が来るのが嫌だから、夜早く床に就きたくない。

結果、夜更かしになるが、そんなに長く睡眠が取れるわけでもなく、

朝、目が覚めると、今日も1日が始まってしまった・・・と思う。

うつを表現している『ぼくのなかの黒い犬』という動画・絵本がある。

まさにこんな感じだ。

目が覚めたら、ベッドで横たわる自分の上に黒い犬がいるのだ。

私の意志を超えた別の生命体だと思った。

そして、その生命体に支配されているかのような感覚。

自覚できるまで4ヶ月かかった。

うつ状態が2週間以上続いたら、うつ病の診断が出る。

だから、もしその時に病院に行っていたとしたら、私はうつ病と診断されていたかもしれない。

自分の異変に、薄々そうじゃないかと思っていたけれど、

いや、まさか、本当に?と信じられないでいた。

正確に言えば、まともな思考が働いていないので、

正常な見方や判断ができなかった。

けれど、ネットで調べたり、友人と話しているうちに、

ついに、「あぁ、私はうつ状態なのだ」と自覚した瞬間があった。

そこからは、家族に助けてもらいながら、朝の散歩、運動、睡眠をとにかく優先し、

助けを求めて友人に話を聞いてもらったり、一緒に出かけてもらったりしながら、

たくさんの人の手を借りて、回復することに集中していた。

すると、徐々に状態が良くなり、

上へ下へと曲線を描いて、山と谷を繰り返しながら上昇していくような感じで、

一進一退を繰り返しながら、ようやく以前と同じくらいと思えるようになるまで、

トータル1年近くかかった。

もちろん、何年もかかる人もいると思う。

そういう意味では、私は幸運だと思っている。

最盛期は、カウンセリングセッションを受ける気にもならなかった。

実際に、数人受けてみたけれど、その時は、私に必要なのはカウンセリングやセラピーのセッションじゃないと思った。

むしろ、朝の運動や、睡眠、散歩でこの状態を改善することが先決だ、と思った。

その後、少しずつ回復してきて、状態が良くなってきたと自分でも思えるようになってきた時、

ようやく、自分に何が起きているのか、起きていたのか、見つめていこう、

そのためにカウンセリングやセラピーのセッションを受けよう、と思えるようになった。

複数回、様々な人のセッションを受けた。

一つ一つのセッションが積み重なって、今があると思っている。

中でも、割と状態が良くなってから受けたゲシュタルトセラピーのワークが、印象に残っているので、

その気づきを書いてみようと思う。

回復してきたある日、感じた異変

うつ状態の時は、ベッドで横になっていることが多かった。

回復してきても、床に横たわったり、廊下に横たわったり、公園のベンチで横になったり。

とにかく横になっていることが多かった。

良くなってきたら、散歩やウォーキングにも行けるようになったし、

食事も作れるようになっていった。

そして、だいぶ良くなってきたと思っていたある日、

今朝もまずは外に出よう、少し歩いたところのカフェに行こうと準備をして、玄関に荷物を運んだ。

けれど、忘れ物を取りに部屋に戻って、また玄関に行こうと思ったら、

からだにその気が全くなく、そのまま私は床に横になってしまった。

そして、横になりながら「何もしたくない」と初めて思った。

そう、なんにもしたくない、のだ。

出かける準備もしたのに、着替えもバッチリなのに、あとは靴を履いて出るだけなのに。

からだから出てきた声だった。

「なんにもしたくない」

これはどうしたことか、と思った私は、横になりながらスマホでゲシュタルトセラピーのワークショップに申し込みをした。

そのまましばらく床で横になっていたら、カフェに行く時間が無くなり、

朝カフェの予定は取り止めて、直接ワークショップへ向かうことにした。

その道すがらも、なんだか自分の中の不一致感が激しかった。

本当はこの不一致感は、良くなってきたと思ってからも、ずっと自分の中に横たわっていたものだった。

この日は、それをより自覚化できた、という感じだった。

コンビニに寄って、飲み物を買おうと手に取った。

けれど、飲みたい感じはしない。

でも、買わないで戻したいわけでもない。

一体、私はどうしたいの?

そんな小さなことすらも分からなかった。

会場について、ワークショップが始まり、私はクライアントをしたいと挙手をした。

ゲシュタルトセラピーを受けた

何人目かで、私のワークをしてもらえることになった。

現実問題として、気にかかっていることや、テーマとして思い浮かぶことは沢山あるけれど、

そういう具体的なことを一つ一つ話すことも違うと感じた。

だから「頭とからだの不一致感がすごいんです」と伝えた。

すると、ファシリテーターは「それはどんな感じなのですか?」と質問した。

私は「コンビニで飲み物を買うこと一つとっても、不一致感があります。頭とからだが綱引きしているみたいなんです」と言った。

そうしたら、「それをワークしてみましょう」ということになり、

参加者の方が1人協力してくれて、私の頭になってくれて、私はからだになり、長細いクッションを使って、綱引きをした。

頭とからだのワーク

引っ張る頭。

綱引きの綱に覆い被さるように倒れ込んでいるからだ。

からだ:
「動けない。やめて。引っ張らないで。引っ張る頭にイラつく」

今度は自分が頭になってみる。

頭:
「分かるけど、前に進まなきゃ。だってこのままじゃ溺れちゃう。からだにイラつく。」

再度からだになってみる。

からだ:
「わかってる。でも動けないんだもん。」

頭:
「そんなんじゃ生きていけないじゃない。(綱を力の丈いっぱい引っ張る)」

からだ:
「(綱にしがみついて、動かない)」

こうして、交互に、頭になり、からだになり、対話が進んでいく。

頭:
「自分ばっかり休んでてずるい。もう!行こうよ!(からだを叩く)」

からだ:
「うん、そうだよね。頭の言うことも分かる。頭は頑張ってくれているんだよね。良い方向に行こうとして、頑張ってくれているんだよね。動けなくてごめんね、、、」

ここまででのプロセスでも、一つ一つの言葉がそんなにスムーズに出てきた訳ではなく、

何度か入れ替わりながら、「頭」と「からだ」を時間をかけてそれぞれ味わい、

内側から言葉が出てくるのを待っているので、既に1時間以上が経過していたのではないかと思う。

そうしたら、ふと、うつ状態になったきっかけの出来事を思い出した。

からだ:
「あれは衝撃だった。壁があると知らずに向かっていったら、壁があってすごい衝撃で飛ばされた。

その感覚だけがあったけど、そのあと、倒れたんだなぁ、、、。私、動けないのは倒れてるからなんだな、、、」

頭:
「・・・そうか、倒れていたんだね。それは動けないね・・・。引っ張る気にもならなくなってきた。まず、その負った痛手をケアしていこうか。」

からだ:
「うん。頭は、事態が分かればちゃんと対処してくれる。私、倒れていたんだね」

頭:
「ヨシヨシ。(からだを撫でる)」

ワークを通しての気づき

自分では予想しなかった展開だった。

そう、私のからだは倒れていた。

そう思って、これまでを回想してみると、

ベッドで横になっていたのも、

公園のベンチで横になっていたのも、

床で横になっていたのも、

全部全部倒れていたんだ、と気づいた。

生きていく中で、予測もできず準備もできずに、私たちは衝撃を受ける。

そして傷を負う。

けれど、そんなことで倒れ込んでいたら、この世界で、この社会で生きてはいけない。

だから、自分の中の別の一部が、緊急事態を察知して動き出す。

そうやって、私たちは危機を切り抜け、生き延びる。

停電時だけ切り抜けるための臨時用の発電機のように、

あるいは戦いで負った傷の応急処置をして、また戦場へと戻る戦士のように、

根本のダメージは癒えないままに、解決されないままに、事は進んでいく。

一時凌ぎの手当が功を奏して、あるいは、回復力の強さによって、

そのままでも進んでいける場合もある。

けれど、その手当てでは事足りずに、傷口から血が流れ続け、

回復しないままに進んでいく時もある。

このことが、頭とからだの不一致感として、私に起こっていたのだ。

からだは、頭よりも遥かに、起こった出来事の衝撃の強さや、

どれだけの痛手を負ったかを知っている。

とにかく生き延びる必要がある時は、その痛みは覆い隠されているけれど、

もうその時の痛みを感じても大丈夫、という状況になると、

痛みがからだの内側からノックして、ケアを求めて、表へと出てきたがる。

痛んだ心とからだを、引きずるようにして前へ進んでいくことは、しんどいからだ。

気づきが起きてからの変化

このことに気づけた私は、

思うように動かないと思っていたからだが、

本当は痛手を負って倒れていたことに気づき、

なんとか動かそう、なんとか引きずって前に進もう、ということをやめた。

とにかく、このからだ(つまりは心であり、自分)を癒し、自分を大切にしながら、一緒に進んでいこう、と思った。

そうしたら、とっても楽になった。

無理がなくなった。

力みがなくなった。

ダメな自分、弱い自分、も受け入れることができるようになってきた。

無理に目標を立てたり、急き立てるように行動を考えるのはやめた。

一見遠回りのように思えるけれど、きっとこれが近道のような気がする。

もちろん、頭に湧いてくる焦りや不安はあるけれど、

今ここを大切にして、今目の前に困ったことは起きていないことを確認して、

からだの声を聞きながら前に進んでいこうと思っている。

納得した動画「うつは、心の風邪ではなく、心の●●」

うつ状態の時に、とにかくネットで沢山のことを調べた。

良いと書いてあることは色々とやった。

タンパク質を多く摂取してみたり、温泉に行ってみたり、他にも色々と。

うつ病経験者自ら体験を伝えている動画にも、とても救われた。

本当に、沢山の情報に助けられた。

そして、もう大分良くなってきた頃、

鬱ってなんて苦しいんだ、

心の風邪なんて生易しいものじゃない、

などと、それまでのことを振り返っていたら、

そうそう、そうだと思う!と納得した動画に出会った。

私の場合は、軽症だったと思うけれど、

それでも、心の風邪という表現に違和感があったから、

動画を見て、大きく頷いてしまった。

うつは心の骨折だと思えば、自分に起きていたことも納得がいく。

心が折れて、そして、心を表すからだは倒れていたのだ。

うつ状態を経験してみて思うこと

今回、人生で初めてのうつ状態を経験してみて思うことがいくつかある。

うつは誰でもなる

ネットの情報や、身の回りにうつを経験した方がいることもあるので、

うつは誰でもなる可能性があることは、頭では分かっていたけれど、

どこかで、自分はならないだろう、と思っていた。

けれど、自分自身がなってみて、

本当にうつ状態は、誰でもなる可能性があることだと思った。

引き金は色々とあると思う。

無理をして頑張り続けた結果、という人もいれば、

私のように、自分にとってショッキングな出来事、喪失などがきっかけになる人もいる。

だから、他人事では無いのだということ。

人に助けてもらう大切さ

今回の状態から、一人で抜け出ることは不可能だったと、振り返ってみて思う。

本当にありがたいことに、私の周りには、

カウンセラー・セラピストが沢山いるし、うつ経験者も多い。

ただただ傾聴してくれる仲間。

自身のうつ経験から、的を射たアドバイスや情報提供をしてくれる友人。

助けを求めたら、応じてくれる友人、仲間、家族。

ネットで、様々な情報提供をしてくれる人々。

転換点は、うつ経験のある友人に、周囲の人に頼って助けを求めて、と強く言われたことだった。

それまで、ためらいながらも助けを求めていた私は、

なりふり構わず、片っ端から助けを求めるようになった。

だからこそ、早く回復できたのだと思う。

人は一人では生きられない、そして、人は一人では生きていない。

人との間で起きる出来事で奈落の底に落ちることもあれば、

この上ない幸せと安心と安らぎを与え合うこともできる。

手を差し伸べてくれた周囲の人々に、私は足を向けては寝られないけれど、

でもそれは、借りを作ってしまった、、、という負の感情というよりは、

何かあっても助け合い、支え合える関係性の大切さとありがたさを噛み締め

深い喜びと感謝の気持ちと共にある思いだ。

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2024/4/15(月)20:00〜風が生まれるトークセッション第5回@オンラインを開催します。

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この記事を書いた人

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わたなべ えり

カウンセラー/セラピスト/講師/ファシリテーター
カウンセリング・セラピー・コーチングなどを融合させ、人がいのちの喜びを生きることをサポートしています。
10代の頃から心に興味を持ち学ぶ。「自分のやりたいことが分からない」、「感情が分からない」、「人とのコミュニケーションがうまくできない」、自身も苦しんだこれらの悩みに光をもたらしてくれたのは、心の学びを通じて、自分の心を見つめることでした。
悩み苦しみは、転じていのちの喜びへと通じているのだと思います。そのプロセスの伴走をさせていただいています。
好きなことは、旅、読書、音楽を聞くこと、散歩。また、自然をこよなく愛する。