雪の季節に内観合宿へ参加することに
2018年の年末から、2019年の年始にかけて、内観合宿に参加した。
内観とは、実業家であった吉本伊信氏らによって開発された自己観察法だ。
集中内観は、6泊7日で宿泊し、朝から晩まで、家族や親戚、学校や職場など、これまでの人生に関わった方々に対して、
「していただいたこと」
「して差し上げたこと」
「ご迷惑をかけたこと」
の3つの項目を調べ尽くす。
10年ほど前から興味を持っていて、いつか参加したいと思っていたものだった。
なかなかこれだけの長期間、都合をつけて参加することは容易ではなく、機会をうかがっていた。
もちろん、スケジュール的なものだけでなく、感覚的にも「今だ!」と思える時を待っていた。
そのタイミングが、今回訪れた訳である。
日本全国、内観研修所はたくさんあるが、友人の勧めもあって、穂高にある信州内観研修所を選んだ。
冬になると雪景色の中に身を置きたくなるので、その望みも叶えてくれる場所であった。
内観研修所へ向かう
合宿初日に穂高駅前に、研修所の方が車で迎えにきてくださる。
早めに到着したので、集合時刻までの時間で、駅から徒歩数分の穂高神社にもお参りができた。
年末の時期だったため、半年に1回行われる大祓式の準備が始まっていたようだ。
写真の右側に少しだけ写り込んでいるのは茅の輪で、大祓式の中で行われる「茅の輪くぐり」という、輪をくぐって無病息災を祈願する儀式の際に使われるものだった。
くぐり方に作法があるようで、説明が紙に書かれて近くに貼ってあった。
お参りに来る方も、紙を見ながら楽しげに輪をくぐっていた。
私も同じく輪をくぐり、お参りを終えて、ゆっくりと神社の周りも散歩した。
そうしているうちに、待ち合わせの時間が近づいてきたので、駅へと向かう。
駅に着くと、送迎の車が到着していて、集まった人々が2台の車に別れて乗車を始めていた。
全員が車に乗り込むと、車は研修所へ向かい走り始めた。
10分ほどで研修所となる有明の家へ到着。
到着すると参加者全員が席につき、お茶をいただきながら指示された資料に記入をする。
ちなみに、この甘味は、研修所の所長である中野さんの手作り。
合宿中の三度の食事も、中野さんが野菜を中心とした和食を出してくださり、参加者の皆さんに大好評だった。
この後、手持ちのスマートフォンや電子機器は全て預けたので、これが合宿開始前、最後に撮った写真となる。
優しい味の甘味を味わいながら、静かに資料を記入。
その後、間も無くして、具体的な内観法についての説明と寝食にまつわる説明を受け、
説明が終わると、一人ずつ自分が過ごす場所へと案内された。
屏風に囲まれた、わずか一畳強ほどのスペース。
内観するには、十分な広さだ。
内観を開始
いよいよ、各々、自分の場所にて内観が始まった。
1〜2時間おきに、研修所の方が思い出したことを聞きにいらしてくださる。
最初に困ったことは、なかなか集中できないことだった。
しかし、食事時になると、体験者のインタビューや吉本氏のお話などが放送で流れる。
お話を聞いているうちに、少しずつ過去の記憶を思い出し、内観が進んでいく。
7日間のうち、何日かは雪が降った。
朝の掃除の時間や、トイレや飲み物を取りに行く際に、窓越しに雪景色を楽しんだ。
その他にも、毎日の温泉(有明の家はお風呂が温泉!)や食事など、
少しの楽しみも含みながら、年末年始の静かな時が過ぎていった。
内観の大きな特徴の一つは、事実を一つ一つ見つめていくことだ。
相手や自分の感情・態度ではなく、事実として「していただいたこと」「して差し上げたこと」「ご迷惑をかけたこと」を調べていく。
この「調べる」という言葉が、内観の特徴をよく表していると思う。
例えば、子どもの頃、父が遊んでくれたこと。
その時に、その遊びが嫌でも、楽しくなくても、うんざりしていても、父が遊んでくれた、という事実は変わらない。
プレゼントをくれたこと。
その時に、そのプレゼントが、欲しくないものでも、がっかりしても、渡し方が嫌でも、父がプレゼントをくれた、という事実は変わらない。
その変えられない事実のみを調べていくのだ。
なぜならば、事実にこそ宿っているものがあるからだ。
父や母について、兄弟姉妹について、幼少期より遡って調べていく。これだけで数日を要した。
その後は、嘘や盗みについてを調べ、自分の幼少期からかかった養育費についても調べていった。
合宿を終えて
合宿を終えて、私には様々な気づきが起こり、内観の威力も強く感じた。
内観はとても厳しい。3つの質問自体がまずもって厳しい。
人は往々にして、相手のやり方や、言い方、接し方、態度などに傷ついたことはとても強く記憶する。
一方で、それ以上にたくさんの愛をもらっているということに気づけない。
それは、どこまでも、自分目線であるからだ。
事実を淡々と調べていくと、一つ一つの「していただいたこと」は否定しようにもできず、
その奥に頑然とある相手の圧倒的な愛と想いに気づいていくしか仕方がないし、否定できなくなる。
気づきの過程で、自分の甘さ、汚さ、醜さといった部分も感じていく事になるので、それはそれは厳しいものだった。
ただ、その厳しさに耐えた先には、事実わたし達は日々多くの人に支えられて、助けられて、いろんなことをしていただいて生きていることに気づける。
その気づきが、自分の人生を推し進めてくれるものとなる。
そうすると、今度はして返す、して差し上げるという気持ちに自然となってくるのだ。
私自身、していただいたことが本当に沢山あり、日々沢山の人に支えられて生きてきたし、今も支えられて生きているのだということを、心から感じた。
その反面、私がして差し上げていることのわずかなこと。恥ずかしいくらいである。
ご迷惑をかけたことも沢山あるはずなのに、少ししか思い浮かべられない。
それは、日々どれだけ自分のことしか考えていないか、ということだ。
なんと自己中心的な人生を送ってきたのだろう、と思った。
何より両親に関する内観は、深く心に突き刺さることばかりだった。
母には、あんたは自分のことしか考えていない、とよく言われていたけれど、それが本当だと心の底から思えた。
そして、父に関しては、色々と嫌な思いや、悲しい思いをしてきただけに、どこか苦手に思っていたり、恨んでいたり、嫌っていたりしていた時期が長かった。
けれど、父は本当に沢山の愛情を注いでわたしを育ててきてくれた。
若くて稼ぎのないうちから、自分自身のことは我慢して、子どもにたくさんのものを与えてくれた。養育費と、これまでしていただいたこと、苦労を思うことで、そのことを痛感した。
内観は厳しい。けれど、同時に、現実は自分が思うより優しいのだということも教えてくれた。
その感覚は、私が内観前と後とで描いた絵が教えてくれている。
下記が、私が内観開始前に描いた絵。
そして、下記が内観合宿終了後に描いた絵。
終了後に描いた絵には、人が沢山いるし、木や緑や自然も生き生きしていて、全体的に温もりのある世界になった。
自分の内側に変化が起こると、世界の見え方は変わる。
この世界は、現実は、自分が思うより優しかった。
内観を受けるにあたって
今回、自分自身が体験してみて思ったのは、内観を受けるには段階があるかもしれないということだ。
それは、私が感じた内観の厳しさに所以がある。
心の傷つきを癒せていないと思うなら、
自分のことを大切にする感覚を得られていないなら、
ポジティブもネガティブもどんな感情もあってOKと思えないなら、
もう少し待ってもいいかもしれない。
けれど、自分を十分に癒し、どんな自分にも「×」をつけることなく見つめられる心の筋力が備わったなら、参加してみる価値はあるだろう。
内観では、全て事実のみを調べていくので、何一つ疑いようのない現実を突きつけられることになる。
心の傷つきが癒せていないと、その現実を受け入れられないし、受け入れることに苦しさが伴うだろうと思う。
けれど、もう十分準備はできた、厳しいことも受け入れられると思うなら、ぜひ参加してみてもらいたい。
きっと、大きな気づきがあると思う。
参考ページ:内観療法とは(Wikipedia)、信州内観研究所