アクアフローティングハーフデイWSに友人と一緒に参加する
8月中旬に、鎌倉の材木座海岸で
アクアフローティング1dayWSに
参加した。
その時間が、
とても良い時間だったので、
夏が終わる前に
もう一度体験したい、と思い、
主催のお二人に開催リクエスト。
主催のお二人は
名古屋をメインに活動されていて、
鎌倉での開催は期間限定。
私のリクエストした日は、
鎌倉での開催最終日の翌日だった。
それにも関わらず、
快く受け入れてもらい、
開催いただけることになった。
今回は、ハーフデイのワークショップ。
ありがたい。
1人では勿体無いので、
当日まで日がないものの、
仲間に声をかけて誘ってみた。
すると、友人2人が、
「興味を持っていた」とのことで、
都合をつけてくれた。
当日、1人の友人が
急遽都合が悪くなり
参加不可となったものの、
もう1人の友人と一緒に
体験することができた。
前回は、
1Dayで参加者は私のみ。
今回はハーフデイで2.5時間ほど。
参加者は私以外にもいる。
時間も人数も違うので、
また違う気づきがあるかな、と
楽しみに参加した。
当日の会場までの道のりで、生と死に思いを馳せる
前回、私は、
「親密さ」をテーマに参加したけれど、
今回はあまりテーマ設定せずに、
集合場所へ向かった。
向かう道すがら、
ふと音楽が聴きたくなった。
何年か前に
身近な人が亡くなった際、
海を見ながらよく聴いていた音楽。
音楽を聴きながら、
生と死に思いを馳せた。
前回のアクアフローティングWS途中で、
水難事故があり、
浜は異常な雰囲気だった。
後日、その水難事故では、
10代の少年が亡くなったことが分かった。
ワークショップ参加中に起きた
この事故はとても印象的で、
海は、あるいは自然は、
生も死も全て含んでいることを感じた。
自然の中に入っていく時、
動植物の死を感じることは多く、
山であれば、
クマとの遭遇や
遭難、滑落によって
人がいのちを落とす事故も耳にする。
海であれば、
離岸流に流されたり、
川であれば雨による増水などで
人が流される事故は
毎夏聞く気がする。
人間以外でも、
動物の死体・死骸を見かけたり、
捕食の瞬間を見たりもする。
平地や町にいるときは
なんてことのないことが、
自然の中では命取りになり、
本当はいのちはいつでも
生と死の間にあるものなのだと感じる。
海もまた同じなのだ。
若者の死は
痛ましいけれど
自然は、生も死も全てが
そこにあるのだということを
改めて思い出させた。
私がワークショップに参加したその日に、
水難事故が起きたことは、
ワークショップの体験の一部となり、
その時、私が感じたことを強く印象づけた。
生と死。
海が思い出させてくれた
いのちというもの。
ワークショップ開始
集合場所に到着して、
一人一人、
今起こっていることを分かち合い、
アクアフローティングの時間が始まる。
私は、生と死に、
自分の意識が当たっている。
その瞬間の
私の心境をシェアした。
前回参加した日が
新月の翌日で、
今回は満月の日。
月の満ち欠けは
生命に大きな影響を与えるし、
死と誕生のタイミングでもある。
そのことも、
自分の意識が向く方向を
自然と促していたと思う。
シェアしたら、
今ここをただ感じることへ
心が向かった。
海へ
前回と同じように、
皆んなで手をつないで
海へと歩く。
海へ挨拶をして
それぞれのペースで
海に入る。
足をつけて。
徐々に全身をつけて。
海に入ったら、
前回参加した時よりも、
ずっとリラックスして、
すぐに波に浮かんだ。
あの日よりも
波が穏やかということもある。
ただ、ちょっと水温が冷たい。
8月中旬と8月末で
こんなに水温って変わるんだ。
静かな驚きを感じた。
もう季節は
秋に向かっている。
ゆっくりゆっくり浮かんで、
波と戯れる。
波にただ揺られる。
ただただ気持ちいい。
友人のセッションを見て
今回一緒に参加した友人は、
海や水への怖さを語っていた。
その友人が、
海に浮いてセッションを
受けることになった。
セッションは、
海に浮く人(クライアント)と、
それを支える人(Giver)に
分かれて行われる。
主催者である
マルガとギリがGiverとなり、
友人が海に浮かぶのを支える。
友人を包み込むように、
抱き抱えるようにして
守っているようにも見えた。
前回、私が初めて参加した時も、
マルガとギリが私を支えてくれた。
けれど、その時に
私にしてくれた感じと
だいぶ違って見えたのが印象的だった。
前回、二人は、
私に触れて関わるのは
必要最低限だった感覚があった。
あの日の波が、
荒めで小刻みにやってくるタイプのもので、
Giverができることは
そんなに無かったのかもしれない。
私が、海への怖さは無く、
安心して浮いていたからかもしれない。
今回は、Giverの二人に
クライアントである友人の
緊張と怖さが伝わって、
自然と、安心感を感じさせるような
サポートの仕方になったのかもしれない。
セッションは
ただ、何も考えず、
感じたままに進んでいくものだから、
からだが自然にそうなったんだろうな、と思う。
私が友人のサポートをする役になったら、
私はどんな風に触れて支えるんだろう。
好奇心が湧いた。
Giverの時、大胆な自分を感じる
その後、陸に上がって、
休憩しつつ、
今感じていることをシェアする。
落ち着いた頃に、
再度、海へ。
クライアントとGiverを
私と友人で交互にすることになった。
私がGiverになった時、
意外にも、大胆で、
肝っ玉かあちゃんみたいな
私が顔を出す。
友人を
大きな波へと、
旅をさせるように
送り出す私。
海も人も
その大きさをどこか
信頼しているような節が
私にはあるのかもしれない。
面白い。
セッションを受ける側になっての気づき
役割交代をして、
私が受ける側。
相手が私を支えてくれる。
ここでの気づきも
また印象的だった。
1人で波に浮かんでいる時は、
ただ波に任せて、
自由に浮かんでいるけれど、
誰かが関わってくれると、
相手の関わりに意識がいく。
海や波よりも、
人にフォーカスが当たった。
もっと関わりを減らして
放っておいてほしい気持ちが出てきた。
そして、
自分の望む関わりをして欲しい、という
自分も顔を出した。
そのことが気になって、
海に浮いて、波に揺られることを
なかなか感じられずにいた。
これは私のパターンだ、と思った。
陸に上がってから、
この気づきをシェアした。
自然に委ねるように人にも委ねたい
「自然には委ねられるのに、
人には委ねられない。
人も自然なのに。
そう思うことがある。」
と、マルガが言ってくれて、
まさにそうだな、と思った。
波が私を乗せ、
揺らし、動かしていくように、
人も私を包み、
揺らし動かす。
波には、何も期待せず、
要求せず、ただ委ねられるのに、
人には、何かを期待し、
心の中で要求が生まれ、
苛立ちや諦め、寂しさなどが生まれる。
相手が私に触れ、
包み、守ってくれている。
私と波だけじゃなく、
そこに人がいるからこそ
起こっている体験なのに、
相手に委ね、
起きていることを
ただ感じることができなくなっていた。
セッションを受けている最中に、
そのことに気づいた
瞬間があった。
今は、1人で
浮いているわけじゃないんだ。
1人じゃないからこそ
起きているこの体験を、
ただ味わってみよう。
そう思って委ねてみたところで、
時間が来てしまったのだった。
このセッションを通じて、
何か大切なことを
受け取った気がしている。
人も自然。
だから、
自然に委ねるように
人にも委ねてみよう。
今、そう思っている。
*参考ページ:
アクアフローティングが体験できる、マルガとギリのHPはこちら。
*記事トップの写真画像は、ギリが撮影した写真を許可を得て使用させていただきました。