感情モニタリング法によって、自分の微細な感覚を感じられるようになった
竹内敏晴氏の『ことばが劈(ひら)かれるとき』を読んでいる。
読みながら、自分が、なぜ竹内レッスンに興味を持っているのか、その理由にふと気づいた。
小中高生の私は、物怖じせずに自分の意見を言う子だった。学校でも発言する方だった。
けれど、いまの私は、自分が発するべき言葉が見つからずに口を閉じていることが多い。
理由はよく分からない。
もちろん、ある程度普通に日常生活は送っているので、客観的に見てというより、自分の主観的な感覚だ。
思い起こせば、2006年から学び始めた感情モニタリング法(*)を始めて4〜5年目くらいだったと思う。
(*感情モニタリング法とは:河野心理学研究所所長の河野良和氏により提唱された心理療法の理論と具体的な技法)
自分の感覚、感情を感じていくことが自然になり、
自分が何を感じているかに意識を向けることが自然になっていた。
たとえば、対人関係の中では、相手を責める言葉が頭に浮かんでくるような場面でも、
相手に向いている意識を自分へ向けることを覚えていった。
一人で居る時も、何をしていても、していなくても、様々な場面において、
それまで見過ごしていた、自分の中に起こる微細な感覚も感じられるようになっていった。
借り物の言葉でなく、自分の言葉で話し、語ること
それと同時に、借り物の言葉でなく、
自分の言葉で自分の内側に起こっていることを表現することを次第に身につけていった。
簡単に言ってしまえば、自分の気持ち・感覚・意思など内側に起こっていることの言語化である。
誰でも自然に身につけているように思えるこの作業は、実はかなり疎かにされていると感じる。
私自身もそれまでの人生でどこまでやれていただろうかと振り返ってみても思う。
実際に、学校などで習った覚えはないし、
物語や詩を好んで書いていた時に、言葉を見つける作業に苦しみを覚えて、
中断したり脇に置いていた自分を思い出しても、そう感じる。
内側の深部を感じながら、空中や空の方面にある言葉を捕(とら)まえていくことは、
時に果てない作業に感じられた。
自分の言葉で話す確度・密度・深度が増したことで、口が重くなった
しかし、それまで自分の言葉で話していなかったのかというと、それも正確ではない。
もちろん、ある程度の割合では、自分の言葉で話していた。
けれど、その確度が高まり、密度と深度が増していった。
確度が高まり、密度と深度が増すほどに、今度は口が重くなっていったように思う。
自分の言葉で話すことは、自分の真実が露わになること
その時は分からなかったが、今思えば、自分の深部を感じ、自分の言葉で話すということは、
自分の真実に触れることであり、どんどんその真実が露わになっていくことだからなのだと思う。
次第に露わになっていく真実への気づきに身を委ねると同時に、
真実を表現すること、そして表現するために自分を変化させ成長していくことを内側から迫られる。
けれど、そのすべてを実行したからといって、周りに受け入れられる保証はない。
怖いことでもある。
葛藤であり、せめぎ合い。
そんな中に私は居たのであり、今も居るのだと思う。
からだもことばも、実に正直だとも言える。
貝のようになっている自分を劈きたい
いま、そんな貝のようになってしまっている自分のことばを劈き、からだを劈いていきたいのだ。
竹内氏の著書タイトルに使われている「劈く(ひらく)」という言葉は、つんざく、つきやぶる、さくといった意味だ。
かなり激しい印象の言葉だが、
ことばを話し、自分を表現するということは、
それくらい切実で哀しいまでの内側からの大きな圧力とともに生まれ出てくるものなのではないか、と思う。
私の中にも、そんな切実な思いがあったことに気づいた。
竹内レッスンを含め、多くのことに対して興味、好奇心で行動している自分を感じることはできるが、
その内奥には、いつも悲鳴すら発している切実な思いがあったのだ。
私が生まれ出る光を感じた
あぁ、私は私が生まれ出るために、光を求めていたのだ。
その光を竹内レッスンに感じたのだ。
これから体験する機会を増やし、そこで何を感じるのかが楽しみだ。
*参考ページ:竹内敏晴氏の著書『ことばが劈(ひら)かれるとき』