鬼海弘雄さんの写真との出会い
以前、写真を学びに顔を出したワークショップで、何人かの写真家さんの写真が紹介されていた。
その中で、惹きつけられたのが鬼海弘雄さんの写真だった。
すごくインパクトのある写真の数々にすっかり心を鷲掴みにされ、
その衝動のままに写真集「東京ポートレート」と「ぺるそな」を購入してしまったほどだ。
この2つの写真集には、鬼海弘雄さんが30年以上に渡って、
浅草の浅草寺境内で、通りかかった人を呼び止め撮り続けた写真が集められている。
写真集「東京ポートレイト」に寄せられた、作家いしいしんじさんの言葉
写真集「東京ポートレイト」の最後に寄せられた、作家いしいしんじさんの言葉が、
この写真集から伝わってくる空気と臨場感を言葉で伝えてくれる。
灰色の空気を割って、ゆらゆらと、「人間」がやってくる。
輪郭がまわりから浮きあがって、ほのかな輝きさえ発しているので、
写真家にはそれが、待ち受けていた相手であることが毅然とわかる。
(中略)
写真家は訥々(とつとつ)とした口調で話しかけ、
いっぽう「人間」は、口からふきこぼれんばかりにまくしたてたり、
きかれたことしかこたえなかったり、生返事だけだったりと様々だが、
いずれにせよ、むきだしのままここにいる、といったひりついた存在感を全身からにじませ、
なればこそ写真家の目には周囲から浮かびあがってみえ、門柱の前に立ってもらってもいるのだ。
(中略)
むきだしの存在感、そのようにしてしかこの世にいられない、「人間」の切実さ。
全身からにじみだし、空間に浮かびあがる。
「人間」ひとりひとりが、内側に、これまでに語られたことのない「物語」をもっている。
(中略)
「人間」のなかには、言葉ではとてもおいつかない「物語」が横溢し、周囲にきらきらとこぼれだしている。
そのわずかな一滴の中にも、「物語」の全景はえんえんと遠く、こだましつづけているかもしれない。
息をのみ、耳をすませる写真家にとって、「物語」のよしあしはない。
切実に「人間」であることによって、すべては尊く、この上なく哀しく、そしてこの世で唯一の声となる。
写真集を見ていて感じること
どの写真に写る人も圧倒的な存在感があり、心に訴えかけてくるものがある。
その存在が放つ、何とも言えない強い力に惹きつけられて見入っていると、写っている人への興味がふつふつと湧いてくる。
一枚一枚の写真に、写っている人を表す端的なコメントも添えられている。
とても独特なコメント一つ一つが、写っている人の人生を少しだけ垣間見させてくれ、
また更にその人への尽きない興味を湧き上がらせるのである。
この方は、一体どんな職業に就いているんだろう?
どんな人生を送ってきたんだろう?
そして、これからどんな人生を送っていくんだろう?
一体どこから来て、どこへ行くんだろう?
・・・と。
写真を見つめていると、まるで今この人と、
或いは、
旅路の途中にあるこの人の魂と、
出会っているような気にすらなってくる。
もちろんどの人も、会ったこともない知らない人なのに、だ。
それくらいの圧倒的な存在を、リアリティを、精神を、感じられるのだ。
写真は白黒だが、この白黒であることが、
その人の存在や魂といった、純粋で本質的な部分を際立たせているようにも感じる。
一人の人間の存在感、重量感。
光と影、あるいは、美しさと醜さを内包する強烈な生が濃密に伝わってくる。
そして、見終えたあとに、 言葉にしがたい気持ちが心に残る。
苦いようで甘い、可笑しいようで悲しい、希望の隣に切なさがある、、、といった、
相反する気持ちが入り混じり、複雑な深みを帯びた余韻が残る。
時々、本棚に置いてあるこの写真集の表紙を見るだけで、そんな複雑な気持ちが入り混じった不思議な感覚になる。
2021.12.2追記
たまたまこの記事に修正を加えていたら、鬼海弘雄さんが2020年10月19日にこの世を旅立たれたことを知った。
2011年の展示会に、ご本人もいらしていることを知って訪れた私は、
幸運なことに写真集にサインをいただけた。
けれど、緊張して、サインをお願いする以外に、話をすることができなかった。
少ししかめっ面をして、特に笑顔も見せない鬼海さんの様子に、どこか安堵感を覚える私がいたのを覚えている。
心に訴え、えぐり、深い余韻を残す素晴らしい作品を残してくださったことに敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。
参考ページ:鬼海弘雄さんの詳細についてはこちら。
写真集へのリンクは下記になります。